新たな恋 VOL②
つづきです VOL①から読んでください♪
私は「フクロウに見つめられながら生活したいんだよ」と訴えた。
フクロウに、私のすることを全部見ていてほしい。
人の視線は嫌いだけれど、動物には見つめられながら生活したい。
何なら恋人との戯れも見ていてほしい。種を超えた3Pだ。
彼は「生活空間にそんなデカイものはあかん!存在感がありすぎる。
そんなに見つめられたいなら、壁に目を描いてやる!」と言うではないか。
はぁ・・・?壁に目を描く!?なんだその発言は。
イグアナが欲しいと言ったときより、強い反対がうかがえる。
怖いのだろうか?苦手なのだろうか?いったい何なんだ?と思い問うてみると、
「命の重さ」だという。
「ゾウが死んだらみんな泣くだろ。悲しみは体の大きさに比例するんだ。
熱帯魚でとどめておけばいい」と。
彼のいわんとすることはわかる。命に対し責任を持つことは大切だ。
でも私にも言い分があった。
世間一般の多くの人は、結婚し子どもをもうけている。
私はその選択はしなかった。命の重さを知っているからだ。
子どもの方がよっぽど大変なのだ。
エサ代どころではきかない。おむつに始まり、洋服、習い事、レジャ―に学費。
私がここまで大きくなるのに、どれだけのお金をかけてもらったことか。
お金だけではない。予防注射に体調を崩したときの病院通い、授業参観に卒業式。部活動の送り迎えにPTAの世話。どれだけの時間を費やしてもらっただろうか。
人ひとり仕上げるために大変なお金と時間がかかることを、私は受け身の立場として身をもって知っている。
その間に、お友達との関係に悩むわ、反抗期はくるわ、勉強が進まなくなるわ、引きこもりたくなるわ、就職活動に苦労するわ、働いたら働いたで頭にくることは山ほどあるわで、そのつど精神が不安定になる。
子どもがいれば、そうした子どもの悩みや苦しみに間近に寄り添うこととなるだろう。
もうそんな感情に振り回されたくないのだ。
人間の子どもを育てていない分、その体力や財源や愛情をフクロウに充てることなど、何でもないのだ。子育ての100分の1ほどの労力とお金で、フクロウの面倒を見て心を通わせてみたい。
何かを愛でて、誰かの役に立ちたいという母性を、私は持て余している。
何とも説得力のあるプレゼンだと思うのだが、彼にはまったく響かない。
生活空間に生身のフクロウがいる、ということが受け入れられないようだ。
そういえば保育園に通っていたころ、私はゾウとキリンを飼いたいと言って家族を困らせたことがある。「そんな大きいものどこに置くんや?」という祖母に対し、私は「納屋で飼えばいい」と言い放ったらしい。地主の孫らしい的確な発想だった。
確かにあの納屋は、ゾウが育てられる広さだった。納屋でゾウを飼うことから比べれば、部屋にフクロウがいることなど屁でもないではないか。
あのときから、私は動物と暮らしたかったのだ。
まさに今が、そのときではなかろうか―
あぁ・・・フクロウ。君は言葉が話せないけど、今この瞬間だけ
「ボクは絢子さんと暮らしたいです」と言ってくれないだろうか。
恋が始まるときのように。その一言さえあれば、私は迷わず君を連れて帰るのに。