誰が為の戦争か―
久しぶりに金沢のマンションに帰ったら、駐車場に母と恋人の車があった。
母はスポーツジムから帰って、ぬくぬくしているのだろう。
彼はすでにお酒を飲んでいるに違いない。今夜はアメトーーク!の家電芸人が紹介していた圧力ジャーで、スペアリブを作ってくれると言っていた。
愛する2人がこのマンションで私の帰りを待ってくれている。
部屋に電気がついている。こうしたことが、いかに幸せかを噛み締める。
ロシアのウクライナ侵攻が始まってから、私は憤りでおかしくなりそうだ。
戦争はいつの世も、まるで石ころを蹴るかのように簡単に始まる。
一部のトチ狂ったエゴイスト(利己主義者)によって。
人を殺せば「殺人」
人を傷つければ「傷害」
人の車にコインで落書きをすれば「器物損壊」
日常生活ではそれぞれの罪で起訴され、裁判にかけられる人たちも、ひとたび戦争が始まれば、きのうまでの罪が正義にすり替わる。
病院の上に爆弾を落とそうが、テレビ塔を爆破しようが、人々の家を破壊しようが、
文化財を燃やし尽くそうが、老人や子どもを殺そうが、おかまいなしだ。
懲役1000年の罪を背負うべき者がのうのうと生き、人々の住み家を、作り上げた文化を、愛する人を奪っていく。
そんなに戦争がしたいのならば、戦争を始めた国のトップが人間魚雷に乗って戦艦に突撃すればいいのだ。片道燃料で敵機に突っ込めばいいのだ。
なぜ戦争をしたくない一般市民が、狂ったトップのために、家を失い命を落とさねばならないのか。
小学校で歴史を学んだあのころから、私は日本に原爆を落としたアメリカよりも、国民を戦争に巻き込んだ日本の軍部に怒りを感じていた。今もあのとき感じた感覚は正しかったと思う。国民の敵はアメリカではなかった。
自己の名誉のため、自国民の命を命とも思わず突っ走った軍部のトップこそ、日本国民が最も憎むべき相手だったのだ。
今ロシアでは「戦争反対」と声をあげた人々が、次々と逮捕拘束されている。
人々から自由な発言や活動を奪った治安維持法が、時代を超えて違う国で発動されているように見える。
あれほど先人たちが痛みを語り伝え、平和教育が広まり、情報伝達のツールが発達しても、また第二次世界大戦時と同じことを繰り返すのかと愕然とする。
里帰りをしたとき、祖母の顔を見に行った。
祖母は私の帰りに合わせて、サツマイモのチップスとポップコーンを作って待っていてくれた。
父と折り合いの悪い祖母は「テーブルに、透き透きじゃないアクリル板を置きたいわ」と言って私を笑わせた。「透き透きじゃない」というのは「透き通っていない、透明ではない」という意味だ。
父の顔が見えないよう不透明なアクリル板を置いて、一人でせいせいとごはんを食べたいというのだ。
89歳にもなる祖母が時事ネタを織り交ぜ、父をチクリと刺すようなことを言っている。日常会話のユーモアも冴えている。
こうして家族となんでもない話をし、ああでもない、こうでもないと生きていく。
ときにつまらぬことで口論し、悔しがり、それでも笑い合い、思いやる。
こういう日常生活の営みこそ、人生で最も尊いことではなかろうか。
一般国民は領土の拡張なんてどうでもいいのだ。
温かい部屋で愛する人と食事ができる、そんな日常があればいいのだ。
戦争をしたいなら、言い出した者が人間魚雷に乗れ。
自分が指揮を執りたいならば、せめて家族を特攻隊に出してみろ。
私は普段、政治的な話をする方ではないのだが「戦争は絶対にしてはならぬ」という
気持ちは揺らいだことがない。