ayakonoheya’s diary

日々のことを、ありのままに

『お慕い』の反響

「こんばんは。お休み日は、いかがお過ごしでしたか?

ジョギングは、なさったのでしょうか?

フェイスブックの写真で、水槽、拝見いたしました。

エビちゃん、なかなか味があり楽しいですね。

新三姉妹魚は、仲良く揃って遊泳していていい感じです。

ホースお買い求めになられたのですね。

水替えの時間が短縮されて、よろしゅうございますね。

またまたブログ、素晴らしいです。

お慕いしている方は、アヤの何のリポートをみて癒されたのでしょうか?

この人物のことを、彼はどう思っていらっしゃるのでしょうか?」

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エビちゃん

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新三姉妹魚!?

一体何事かと思った。母からのLINEだ。

私が書いた前回のブログ「きれいな言葉」に感化されている。

 

「おかん、面白すぎる~!」と返したが、いつものおかんはどこへやら。

完璧にゾーンに入ってしまったようで、次のような返信が送られてくる。

 

「特に面白いことは、申しておりません。

私の問い掛けの返信をお待ちいたしております」

 

そう。前回のブログで、私はきれいな言葉を使う男性が好きだと書いた。

人生で初めて「お慕い申し上げております」という言葉を使ったことも。

 

書きながら、ぎりぎり、ぎりぎりの線だとは思っていた。

ぎりぎりセーフなのか、ぎりぎりアウトなのか分からぬまま、発表した文章だった。

 

もちろん彼のことが気にかからないわけではなかった。

別の男性に「お慕い申し上げています」という私のことを、どう思うのか。

 

私は長年、彼のこともお慕い申し上げてきたのだが、彼は私がかしこまった言葉を

使うことを好まなかった。

「なんか距離を感じる。心を開いていない風に感じる…」と、否定的だった。

だから彼には使わなかったのだ。どうせ使っても逆効果なのだと。

ちゃんと伝わる人に申し上げたいと。

 

その日彼から、私のブログのスクショが送られてきた。

そして「お慕い、おしたいーーー」と、書かれていた。

 

どういう意味だろう…。恐る恐る「なになに?」と返してみる。

「僕もお慕いされたいーーー」「おしたい!おしたい!!!」と書かれている。

「お慕い、好きになったの?」と聞いてみる。

「好きになったにゃー。シャワーいってくるねーー」それでこの話は終わった。

 

どこまで本心かは不明だが、意外とあっさりした反応だった。

もしかしたら大げんかに発展するかもしれない、私たちは終わるかもしれないとさえ思っていたが、このブログに関するやりとりは非常にポップな形で幕を閉じた。

 

しかし、母の中では終わっていなかったようだ。

数日経ってもまだその文章を引きずっている母から、興奮冷めやらぬLINEが送られてきた。

 

「『きれいな言葉』は、今までのブログの中で、私にとってはナンバーワンです。

何回も読みました。

登場人物が、それぞれ素敵。

しゃべりのセンスやペンのセンスがあり、「品」も「学」もある方々。

太宰治の朗読を聞かせてくれる人…。それを贅沢に横顔を見ながら聞いている。

ティファニーの指輪を買ってもらったとか、星がつく高級レストランでディナーをしたとか、そんな話はどこでも聞くが、朗読だなんて…!

 

きれいな言葉に見合ったきれいな言葉を返すアヤ。

「お姿」と書かれトキメキ爆発の感じが伝わりすぎる。

「お慕い申し上げます」なんて気恥ずかしいことを送信してしまって、やっちまったかなぁ…と思う間もなく、意外な返信にますますトキメキ💛

実話を巧みに書けるって才能だね。手に取るように伝わる。

アヤの文才が冴えている。

 

私なんか、とても登場できない。

できるとすれば、大きなイチモツをみて笑っていたことのみ」

 

そう。どぶろっくの大きなイチモツの歌も、ぎりぎり、ぎりぎりだ。

ぎりぎりセーフなのか、ぎりぎりアウトなのか不明だが、とりあえずテレビ局はセーフとして放送しているのだ。

 

というわけで、なんだか知らないが、母はすごい感動してくれたらしい。

 

私は母に「おかんは私のスペシャル読者!もしかしたらおかんがいるから私は書けてるのかもしれない」と返信した。

 

そして彼には「きょうの仕事もすてきでした。お慕い申し上げております」と送信した。

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2021年9月7日(火)くもり

きれいな言葉

どうしてそんな流れになったのかはすっかり忘れたが、2年ほど前、彼のマンションの物干し部屋で太宰治の「グッド・バイ」を音読してもらったことがある。

贅沢な時間だなぁと思った。私ひとりだけのための朗読会だった。

安定感のある低い声に耳を澄ましながら、私は彼の横顔を眺めていた。尊い・・・。

 

普段から、無駄のないきれいな言葉遣いをする人だ。

抑揚があるけれどわざとらしくない。ボキャブラリーも豊かだ。

しゃべりのセンスは一生かけても追いつけない。

そんな彼が読んでくれたグッドバイがいまだに忘れられない。

 

しゃべりのセンスに惚れることもあれば、ペンのセンスに心揺さぶられることもある。

 

知り合いの新聞記者がコラムを書いたというので読ませてもらった。うまかった。

すっと入りこめる出だし、緻密な取材に基づいた客観的数字、オチに向かって流れるように文章が加速していく。

 

その人は「オチだけ読んで『〇〇だったんだってね』っていう人がいるんですよね。本当のメッセージは別にあるんですけど。まあ、読んでくださるだけでありがたいんですけどね・・・」とこぼした。

 

わかる。ものすごくわかる。

文章を書くときはそこに込めたメッセージがあるのだが、オチや目立つところだけを取り上げて、どや顔でトンチンカンな感想を言ってくる人もおり、心底がっかりする。

 

私はそういう人には別に理解されようとは思わない。

「感性が違うんだわ」と、ばっさり心のどこかで切り捨てている自分がいる。

その人は「まあ、伝えきれなかった僕の力不足なんですけどね」と言っていたので、「それが本心ならば謙虚すぎませんか?」と言った。

 

その人とLINEで連絡を取り合うことがあるが、見事に文字しかない。

これは新聞ですかね!?と見まごうほどに。

「LINEには使いやすい絵文字が豊富にございますよ?可愛いスタンプというのもありますがご存じですかね?」とお伝えしようかとも思うが、それは野暮というものであろう。きっと存在は知っていらっしゃるのだ。

 

テレビで私のリポートを見たその方から「お姿見て癒されました」という一文が届いたときは、どの絵文字も叶わぬほどのインパクトを残してくれた。

 

お姿だなんて・・・。

 

私のお姿・・・癒された・・・

うれしい・・・恥ずかしい・・・何も手につかない・・・

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その人と交わす絵文字なしのやりとりは、日本語の美しさや面白さを再発見するきっかけにもなる。

お互いに韻を踏んでリズムを合わせてみたり、上品な冗談を言い合ったりする。

 

私は気持ちが高まって、生まれて初めて「お慕い申し上げています」と書いた。

送信した直後に、やりすぎたかもしれないと思った。

返信はさらりと返ってきた。「私もです。おやすみなさい」と。

 

先日、どぶろっくの大きなイチモツの歌を目を輝かせて聞いていたことを、この人にだけはバレたくないと切に願う。

 

一般の人はプロ並みに話せなくて当たり前だ。

一流の記者みたいに書けなくて当たり前だ。

ただ「まじうざい」とか「さいあく」を連発する人とは、とても合わないと感じるし、心底軽蔑する自分がいる。

 

突然雨が降ってきたことは、最も悪いこと「さいあく」なことでしょうか?

しょうゆをこぼしてしまったことは、最も悪いこと「さいあく」なことでしょうか?

スマホの充電が残り少なくなってきたことは、最も悪いこと「さいあく」なことでしょうか?と、問いたくなる。

 

言葉がきれいな人と一緒にいると、気分まで明るくなる。感性も合いやすい。

そういえば彼と付き合う間接的なきっかけは、このブログだったかもしれない。

私が書いたことを的確に理解してくれる人だなぁと思っていた。

オチだけではなく文脈も丁寧に読み込んで、コメントしてくれるのでうれしかった。

 

「いつも読んでくださってありがとうございます」と伝えたときに、「好きなんだよね~、あやちゃんが書く文章。面白いし」と言ってくれた一言が、忘れられない。

一緒になっても、私がうれしいこと、私が悲しいこと、私が憤ることを的確に理解してくれるんだろうなと、あのときから思っていた。

 

きっと私は言葉がきれいな人が好きなのだと思う。

言葉がきれいな人は、生き方がきれいで色気がある。

そういう人に、私もなりたい。

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お金の神様と遺言書

2021年8月23日(月)くもり 真夏日

 

祖母の遺産相続について、元気なうちにキチンとしておこうという話になっている。

祖母には長生きしてほしいからこそ、早く今のうちにデリケートな部分はクリアにしておこうと促しているのだ。

 

「私はまだまだ死なん!」と消極的だった祖母がようやく重い腰を上げ、一人で司法書士のところに行った。遺言書をつくるために。

 母が付いていこうとしたが、「私の腹で決める」とかっこいいことを言って、本当に一人で話を聞きに行った。

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一人で司法書士のもとに向かった89歳


 今は両親やその兄弟間での分配の話なので、私の代はまだ関係ないのだが、ちょっと話したいことがあり妹に電話した。妹にこちらの状況を伝え、アドバイスと同意を求める。妹はもちろんそうすべきと快諾する。話が早い。

 

お金の話って、世の中ではしにくそうだ。

みんな遠慮しながら、顔色を見ながら、数字を出し合ったり、隠したり。

それが美徳といわんばかりに。

 

私はそういうのはすごく気持ち悪い。

お金のことこそ、気持ちよくしておきたい。

家族間や恋人・友人など、近しい人ほど『借りたら返す』『基本、割り勘』の精神で

生きているので、お金で嫌な思いをしたことがほぼない。

 

きちんと納税しているのだから、私は給料もボーナスも貯金も聞かれれば答える。

別に隠す数字でもない、黒塗り案件にする必要がない。

ここに記してもいいくらいだが、「それならあなたのも教えてね」と思うので、

平等の観点から記さない。

 

恋人の年収を知っているし、貯金額も知っている。

私の年収も伝えてあるし、うちの土地・財産や、

マンションの購入額や・借金も、だいたい伝わっている。

 

「明朗会計」

 

私はいつもこの言葉を口にする。

ランチをごちそうしてくれた男子にも「明朗会計にしよ、また来たいし」と言って、

店を出た後すぐに現金で半額を渡すようにしている。

そうすると「おおぅ・・・明朗会計ね・・・」と、聞きなれない言葉に面食らいながら、「ありがとう」と受け取ってくれる。

財布だけ出すふりをしてもじもじしていたら、結局払わせてしまう羽目になる。

「明朗会計にしよ」は、受け取りやすい言葉なのだ。

 

なので私はランチに誘われたら、1000円札と小銭が財布にあるかを確認して出かけるようにしている。

 

こうしたことから、私のまわりではお金のトラブルが起きたことがない。

 

昔、高校時代のソフトテニスで仲間の結婚式が続いたとき、

「ご祝儀2万円ルール」というのができた。

みんなが負担にならずに参加できるように、と定められた金額だった。

 

「あの子が多く払ったらしい」「私はいくら払えばいいのか?」などというもやもやが一気に解消される。メンバー間の結婚式は、結婚の時期が早かろうが遅かろうが、豪華であろうが質素であろうが、有無を言わず2万円!という、驚くほど気持ちのよいルールだ。

割り切れる数字だとかそんなことは関係ない。3万円ではキツイという気持ちがそうさせたのだろう。

みんな迷うことなく2万円を包んで出席する。

思い起こせば、まわりの友人たちもお金にきれいなコたちばかりだった。

 

マンションを建てるときも、私は担当者やその上司にいくら以内に収めてほしいと、

はっきりと提示した。

その数字をもとに、いろんな計画が進んでいった。

予算をぱきっと伝えることは大事なのだ。

 

銀行の担当者からかかる季節のあいさつ電話(投資信託のお誘い)にも、

気持ちよくに応じるようにしている。きょうは1本(100万)にしておくかなとか、3本(300万)いけますよなど、私の買い方は100万円単位だ。

おすすめされた通りの商品を買い、嫌な思いをしたことがない。

担当者もとてもうれしそうにしてくれる。

そうしてある程度利益が上がったものを解約し、次の商品を購入する。

 

担当者には「もともとリスクがあることを承知で買っているので、

失敗しても別にいいですよ。命とられるわけじゃあるまいし」と言ってある。

いわゆる「余剰資金」と呼ばれる部分で、私はけっこう太っ腹に冒険する。

 

 一度リーマンショックのときは-170万円の損失を出して驚いたことがあったが、「まあ、今じたばたしても仕方ないわ」と塩漬けにして寝かせることで、回復した。

 

「お金は大好きだ」「大事に、有意義に使おう」「失敗しても死ぬわけじゃない」

お金に対してクリアな気持ちでいることで、お金といい関係を気付けるような

気がする。でも目がくらんだら、たちまち奈落の底に突き落とされそうな気もする。

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私はこのお城がもらえれば十分・・・うそ あの土地も、あの納屋もほしい笑

遺産相続に、遺言書。

「みんなが笑顔になる方向で進めよう」そういいながら我田引水したい気持ちが見え隠れする。

ちょっとした欲が命取りになるので、気持ちよく、誠意をもって・・・。

お金の神様に見捨てられないように―

恋愛持久走

恋愛の初期は、50m走を何本もこなす感覚に似ている。

 

浮き足立つ。呼吸が乱れる。目が合っただけで頭の奥が痺れ、LINEのやりとりなどは、諳(そら)んじることができるまで読み込んでしまう。

彼のことを知りたくて、でも全部知るのは怖くて。

自分のことを知ってもらいたくて、でも全部知らせることにためらいもある。

 

彼の仕事のひとつひとつが尊い。その才能に憧れ、ひれ伏し、嫉妬する。

 

気持ちは彼の周りをキャンキャン走り回るうれション犬のくせに、涼しい顔をしてエッジの効いたことを言ってみたり、誰もしないであろう質問をぶつけたりして揺さぶりをかける。

 

食事にでも誘われようもんなら、逆に逃げ出したくなる。

「生中継より緊張する・・・」と言いながら、待ち合わせ場所に向かったこともある。

 

裸で抱き合う以上に、外での食事は相性が問われる。

相手のテンションや温度感を見ながら、食事も会話も楽しもう。

手のひらにメモをするような感覚で「きょうはこれを言いたい、会話に詰まったらあの話題を提供しよう」などと準備をしたこともあったけれど、今はもう、現場まで白紙で行っても何も問題ないことがわかってきた。その空気をただ楽しめばいい。

 

クールな印象のあの人が饒舌に話してくれる。楽しそうに笑ってくれる。

キレイな指。知的な佇まい。低い声。

そのすべてを目の前で感じられる。

 

「蟻地獄ならぬ、アヤ地獄に堕ちてみます?」声に出さずに問うてみる。

恋愛の醍醐味は、恋愛初期だ。

何本も50mを全力疾走し、ランナーズハイの精神状態が味わえる。

 

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思えば、いまの恋人ともこんな時代があったんだよなぁと思う。

しかし、こんなことが半年以上続けられるわけもない。

50mダッシュができる期間は限られている。

ちょっと水を飲んだタイミングで「そろそろ、中長距離走態勢に変えていきましょうか…?」となる。

言葉に出さなくとも、徐々にペースを緩めざるを得なくなる。

平常心で生きるていくために。この恋愛を続けていくために。

 

あんなに張り詰めていた気が緩んでくる。

彼がいるのに口をあけて居眠りをし始める。

私がいるのに下着姿でうろつくようになる。

お互いに外で活躍する顔と、家でくつろぐ顔のギャップが激しくなってくる。

しかし、別に幻滅しているわけでもない。これはこれでいい。

 

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そういえば、と思う。

全力疾走期に、彼は『女神ちゃん』フォルダなるものを作っていたことを思い出した。

全力疾走期にしか思いつかないようなフォルダ名だ。私の顔写真をすべてそのフォルダに収め、「ほ・ぞ・ん」と言っていた。

 

あのときは「やめてくださいよ~ 恥ずかしいですぅ~」などと言っていたが、最近、そんな様子をぱったり見なくなった。

「やめてくださいよ~」などと言わなくとも、すっかりやめた風情がうかがえる。

 

おもむろに問うてみた。

「あのさ、女神ちゃんフォルダどうなった?」

「おおぅ・・・あれね・・・」一瞬、言葉に詰まっている。

 

そうして饒舌に語り始めた。

「前のスマホは16ギガしかないから、不要なものを削除して、大事なアヤの写真は別場所に残す必要があったんだ。でも今のスマホは256ギガもあるから、フォルダに移行しなくても全部残ってるんだ。

 

これまでは自分で管理しないといけなかったけど、僕らの間柄になれば、見たい写真はアヤに言えばすぐ出てくるしね。2人で1つのフォルダっていうかさ」と。

 

なんだこのうますぎるまとめ方はー。なんも言えねぇ・・・。

仕事の耐震強度

2021年8月16日(月)くもり

 

 「会いたい」「顔を見て話したい」「美味しいものを食べて、笑い合いたい」

そんなシンプルな欲求を「いつか」「よくなったら」「トンネルを抜けたら」と、

先延ばし、先延ばしにし、今に至る。

 

 しかし、待てば待つほど状況は悪化。富山県はきょうからコロナの警戒レベルが、最大警戒のステージ3だ。

 県内のランドマークが赤く染まる。光の警報。強すぎる赤い光が、時代を不気味に照らしている。

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2021.8.16(月)19:30

  コロナ禍であるとあらざるとに関わらず、最近、気持ちの浮き沈みが激しい。

ちょっとしたことで天にも昇るような喜びを味わったり、ちょっとしたことで自分の不甲斐なさに自己嫌悪に陥ったりする。

 

 私と同じくらいの年代の人が、後輩の育成や指導に携わっている。信頼され、慕われている姿を見るとまぶしい。

 しかし、私はそういう仕事を自ら放棄してきたのだ。「強めに言って恨まれたりしたら大損だわ。うま味がないし、自分には向いてない」と、育てる作業は先輩に丸投げした。そもそも人に何かを教える自信がなかったのだ。

 そうして私はひとり編集室にこもり、自分の世界観を作り上げることだけに没頭してきた。

 

 入社したあの頃に戻って、すべてをやり直したいと思うことがある。

 

 新人時代は新人記者らしく、警察まわりに奔走すればよかった。一度も警察担当を経験しなかったから、今になって苦しんでいる。「本当はアナウンサーになりたかったのに…。記者なんて地味で苦しいだけ。何で私ばっかり、デスクに叱られ倒すのか」と、不貞腐れた態度をとり続けたつけが、今になって自分を苦しめている。

 

 中堅時代は中堅記者らしく、県政取材に奔走すればよかった。当時の私は政治という世界を毛嫌いしていた。あの世界特有の空気に馴染めず、どこか片手間だった。もっと前向きにパイプを作って、バリバリ記者解説をすればよかった。

 

 何者かになりたかったのにうまくハマらず、何者にもなれなかった日々。

 

 当時、県政記者室で読んだ新聞記事が忘れられない。

私より若き芥川賞作家が「欲しいものはすべて手に入れました」と、インタビューに答えていた。

 

 「私は何も手に入れていないのに…」と、膝から崩れ落ちるような感覚に陥った。未だにその感情はよく覚えている。

 

 あの頃の自分に言ってやりたい。「せっかくテレビ局の記者になったのだから、目の前の仕事に集中したら?面白いわよ」と。

 魂を入れて仕事をすれば、目の前の景色は変わっていただろうと、今になって思う。

 

 こうして私はただ「長く続けている」というだけで、それなりのポジションに就いているのだが、どうも心もとない。仕事の「体幹」が乏しいのが自分でわかる。

 あまり自分の弱みを見せるタイプではないのだが、私は信頼できる人に胸の内を打ち明けてみた。

 

「私、この世界は長いんですが、警察担当をしたことがないままデスクになったり、

政治の記者解説をしたことがないまま支局長をしていたり、仕事の耐震強度がグッラグラなんです。日々いつ倒れるんだろうと思いながら、持ちこたえています」と。

 

すぐに返信がきた。

「周りはこの人ならできると思うから、いろいろ任せるのではないでしょうか。危ないと思ったらさせないでしょう。中田さんは、まじめすぎますよ。そこがいいところでもありますが。えらそうなこと言ってすみません」と。

 

 メールのやりとりではもどかしく、そのあと電話で40分ほど話をした。自分には戦友と呼べる人もおらず、孤独だということも打ち明けたすると、「何言ってるんですか、私たち戦友じゃないですか」と返ってきた。

 まじめな私を励ますための、もったいなすぎる言葉だった。

 

 おもむろに辞書で調べてみる。

 『戦友』

1 同じ部隊に属して生活をともにし、戦闘に従事する仲間。戦場でともに戦った友。

2 (比喩的に)仕事やスポーツなどで、厳しい競争を共に経験した仲間。

 

「ありがとうございます。涙が出るほどうれしいです」と言葉にしたものの、私とその方とはレベルが違いすぎるし、戦友として私が力になれたことなど一度もない。

 

 何かの戦いのときに力になれるよう、本当の戦友になれるよう、日々精進しようと思う。どんな戦いが起こるのか、何をどの方向で頑張れば戦友になれるのかピンとこないが、わからないことは格好つけずに人に聞いて、誠実に、ごまかさずに…。

 

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 真っ赤な街を撮って帰途に就くと、富山県にもまん延防止等重点措置が適用される方針だという情報が入ってきた。甘えたくても甘えられない。誰にも会えない今こそ、自分と向き合い、力を溜めるにはいい機会かもしれない。

 

 一眼レフのモニターを見ながら、撮ってきたばかりの真っ赤なランドマークを確認した。今は大きな意味で、人類全体が戦友なのだと感じた。

キミと太宰

2021年8月13日(金)

 

 人との距離をどう詰めたらよいか迷うときがある。

 

 今はお互い敬語で、気を遣い合い、たわいもない話をする間柄。

 とても思慮深く見えて、自分なんて足元にも及ばないような気にさせられ、ときに嫉妬も覚える。

 憧れているが、深く知らない分、買いかぶりすぎかもしれないとも思う。

 男女問わず、ヒトとの関係はこういう初々しさからスタートする。

 この関係をこのまま続けるのもひとつ。もう少し踏み込むのもひとつ。

 

 この話はファン心理にも通ずることがある。誰かのファンになったとき、その人とお近づきになりたいのか、あるいはあくまでもファンとして遠くから見守りたいのか。

タイプは大きく二手に分かれると思う。

 

 私は上沼恵美子さんのトークが大好きで、上沼さんが出ている番組は毎回楽しみにチェックし、おもしろおかしい物言いに大笑いしている。大ファンなのだ。

 

 でも、友達になりたいか?上沼さんが親戚だったらうれしいか?と問われれば、話は別だ。私はテレビを通して、遠くから上沼さんを見るのが好きなのだ。もしも、うちの茶の間に上沼恵美子さんがいらしたら…。かなり気を遣うし、圧倒されるだろう。うかつに変なことは言えない。軽蔑されそうだ。

 

 好きな俳優、アーティスト、作家になど対してもそうだ。かっこいいなぁと思う人がいても、付き合ってみたいか?というと話は変わってくる。その人の演技やパフォーマンス、作品という「芸」の部分に強烈に憧れたとしても、プライベートの部分は未知数だ。

 

 相手を知りたいと思うが、知ったら知ったで、近づいたら近づいたで、印象が変わることは往々にしてある。がっかりするかもしれないし、逆にもっと好きになるかもしれない。

 

 仕事ならば職業精神から事細かに取材するが、プライベートである場合、身近な人をどこまで取材しようか悩むことがある。

 相手に踏み込むということは、自分をさらけ出すということだ。

 

 ある人に聞いてみたいなと思うことがあり、私は大いに迷っていた。不躾かもしれない。嫌な質問かもしれない。そのことを聞かなくても、日常生活に影響はない。

 

 その人のことは佇まいや文章がきれいな人だなぁと思って見ていた。会話を交わすこともあるが、まだまだ他人行儀の域。しかし、私がこの質問をすることで、距離感はガラガラっと変わるような気がしていた。

 

 ゆっくりお話ししたいですねと言いながら、コロナ禍でとてもお会いできる状況ではなく、ときおり交わすラインで「お元気ですか」「暑い日が続きますね」と、たわいもないやりとりが続いていた。

 このままでもいい。でも聞いてみたい。私はある晩、勝負に出た。

 

 「ひとつ取材してみたいことがあります」

 「何でしょう。取材とは」

 「不躾ですみません。いつか聞いてみようかなとは思っていたので、早かれ遅かれこの質問はしていた気がします」

 

 そうして私はある質問事項を書き、その理由を番号でお聞かせくださいとして

①から⑥まで自分が考えうる予測を書いた。

 しばらくして、「④でもあり⑤でもあり、でもそういうことでもないような。すみません。わかりませんよね。私は駄目な人間なので」と返ってきた。

 

 返信を見て、核心に近づいたような、余計に遠のいたようにも感じた。ミステリアスで、ますます掴めない。最後の一文は、太宰治をも感じさせた。

 

 「えぐい質問ですみませんでした。太宰治から返信がきたかと思いました」

 「えぐいですね、確かに。あ、これ褒め言葉です。記者として。太宰ですか…。駄目なやつって感じですね。そんな感じですか、私。あの気だるそうな顔が浮かびました」

 

 太宰治に見えたというのは、私にとっては最高の賛辞だった。返信を読む限り、そう例えられるのを本当に嫌がっているのか、あるいは照れ隠しでそう書いたのか、わからなかった。

 

 太宰先生からは「あなたは、私に聞いたものはお持ちなんですか。えぐい質問返しで」という文章が届いた。

 

 ああ・・・質問返しがくるのか。これは想定外だった。私は面食らいつつ、うれしかった。太宰先生が、私にかなり深い質問をしてくださっている。

 

 結局、この案件はラインでは埒があかない。会ったときに話しましょうということになった。しかし、世の中はますますコロナの感染が爆発し、人と会うのは厳しい局面を迎えている。しばらくはお会いできない。早く聞き出したい気もするが、もしかしたらこのまま止めておく方がエロスなのかもしれない。

 

 知りたいことと、知りたくないことは表裏一体だ。

 私はどこまで、太宰先生に近づいたらいいのだろう。

 

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本音とタテマエ

2021年8月10日(火)くもりときどき雨

 

年賀状や住所変更のハガキに書かれている

「近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄り下さい」という一言。

 

近くに行った際は、本当にお立ち寄ってよいのだろうか・・・?

ふらりとアポなしで立ち寄った際の、相手方の動揺が目に浮かぶ。

 

そもそも「お立ち寄りください」なんて、心にもないことを書く方が悪いと思うのだが、その言葉を真に受ける方も受ける方で、まあまあ空気が読めない人種であろう。

これは相手との関係次第なのだが、そもそも年賀状のやりとりしかしない間柄の場合、多くの人はそれをタテマエとわきまえ、近くにお越しの際も立ち寄らない。

 

そんなタテマエに近い言葉は、今の時代にもあると思う。

「コロナが落ち着いたら、飲みに行きましょう」という一言だ。

 

本当に!?落ち着いたら、私と飲みに行ってくれます??

 

微妙な関係の人からこの言葉をかけられると、「お立ち寄りください」に近い印象を

受ける。この言葉を真に受けて、コロナ収束後に「今か今か」と首を長くしてお誘いを

待っていると、馬鹿を見そうな気がするのだ。

 

さて、先日、その真逆のことがあった。

6年前の富山時代、AさんとBさんと私という秘密の3人で仲良くしていた。

秘密と書いたものの別に隠しているわけではなく、この3人が仲良しだということを誰も知らない変わったトリオだったのだ。

 

その後私は金沢に異動になり、続いてBさんも県外に異動になり、Aさんは富山に残り、3人はバラバラに時間を過ごしてきた。

しかし今春、私が6年ぶりに富山に戻ったことで、Aさんと2人で話をする機会に恵まれたのだ。

 

「Bさんも交えてまた3人で飲みたいですねぇ」という言葉は、互いに100%本音だったと思う。2人からBさんに連絡を取ってみると、「3人会アゲインをモチベーションにして仕事がんばります!お2人とは自然体で高め合える気がしてます。何時間でも話しそうです」と、熱いメッセージが届いた。

そして「コロナがなかったら次の週末には行く勢いですよ。気持ち的には、夏から初秋の間に行きます!コロナも8月中には下火になることを願ってます」と言うではないか。(※このやり取りをしたのが7月下旬)

 

 Aさんと私は「Bさん、次の週末にも来る勢いだって!」「私は早くても正月明けくらいをイメージしてたけど・・・」「そうそう。衆院選前に来そうなテンションだね。でも今は感染が止まらず危なすぎるから、2人で止めよう」などと逆に面食らい、タテマエ抜きの「コロナが落ち着いたら、飲みに行きましょう」に触れた気がした。

 

「周りからは想像しにくい取り合わせですよね、この3人。そこがいいんですよ」とAさんもいう。

6年前、2人が開いてくれた私の送別会の写真データを検索してみた。3人で撮ったかな?と思ったけれど、残っていたのは、食べた料理と1ショットの私の写真だけだった。

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岩ガキは私がリクエストしたはず 大好物

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富山のお刺身も食べ収め まあ金沢でも刺身はうまいが( ´∀` )

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シロエビのかき揚げと私 あぁ・・・3ショット撮ればよかった

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ミニすぎるトマトも覚えてる


AさんもBさんも仕事ができて柔軟で人気もある。私はこの秘密結社の1角を担っていることが誇りだった。

だからこそ、この秘密の3人の存在は世に知れてはいけないと思い「3人で撮りましょう」と言い出せなかったのだ。

 

しかし、こんな風にまた3人で集まることになるならば、あのとき3ショットを撮っておけばよかったと痛切に思う。それを見返してひと盛り上がりできそうだ。写真を撮らなかったことを後悔している旨を伝えると、2人から「今度は撮らないといけませんね」「今度ぜひ撮りましょう」と前向きなコメントが返ってきた。くぅ。ますますあのとき遠慮しなければよかった。

 

コロナが収束したら・・・この秘密の3人会はタテマエ抜きで実行されそうだ。