キミと太宰
2021年8月13日(金)
人との距離をどう詰めたらよいか迷うときがある。
今はお互い敬語で、気を遣い合い、たわいもない話をする間柄。
とても思慮深く見えて、自分なんて足元にも及ばないような気にさせられ、ときに嫉妬も覚える。
憧れているが、深く知らない分、買いかぶりすぎかもしれないとも思う。
男女問わず、ヒトとの関係はこういう初々しさからスタートする。
この関係をこのまま続けるのもひとつ。もう少し踏み込むのもひとつ。
この話はファン心理にも通ずることがある。誰かのファンになったとき、その人とお近づきになりたいのか、あるいはあくまでもファンとして遠くから見守りたいのか。
タイプは大きく二手に分かれると思う。
私は上沼恵美子さんのトークが大好きで、上沼さんが出ている番組は毎回楽しみにチェックし、おもしろおかしい物言いに大笑いしている。大ファンなのだ。
でも、友達になりたいか?上沼さんが親戚だったらうれしいか?と問われれば、話は別だ。私はテレビを通して、遠くから上沼さんを見るのが好きなのだ。もしも、うちの茶の間に上沼恵美子さんがいらしたら…。かなり気を遣うし、圧倒されるだろう。うかつに変なことは言えない。軽蔑されそうだ。
好きな俳優、アーティスト、作家になど対してもそうだ。かっこいいなぁと思う人がいても、付き合ってみたいか?というと話は変わってくる。その人の演技やパフォーマンス、作品という「芸」の部分に強烈に憧れたとしても、プライベートの部分は未知数だ。
相手を知りたいと思うが、知ったら知ったで、近づいたら近づいたで、印象が変わることは往々にしてある。がっかりするかもしれないし、逆にもっと好きになるかもしれない。
仕事ならば職業精神から事細かに取材するが、プライベートである場合、身近な人をどこまで取材しようか悩むことがある。
相手に踏み込むということは、自分をさらけ出すということだ。
ある人に聞いてみたいなと思うことがあり、私は大いに迷っていた。不躾かもしれない。嫌な質問かもしれない。そのことを聞かなくても、日常生活に影響はない。
その人のことは佇まいや文章がきれいな人だなぁと思って見ていた。会話を交わすこともあるが、まだまだ他人行儀の域。しかし、私がこの質問をすることで、距離感はガラガラっと変わるような気がしていた。
ゆっくりお話ししたいですねと言いながら、コロナ禍でとてもお会いできる状況ではなく、ときおり交わすラインで「お元気ですか」「暑い日が続きますね」と、たわいもないやりとりが続いていた。
このままでもいい。でも聞いてみたい。私はある晩、勝負に出た。
「ひとつ取材してみたいことがあります」
「何でしょう。取材とは」
「不躾ですみません。いつか聞いてみようかなとは思っていたので、早かれ遅かれこの質問はしていた気がします」
そうして私はある質問事項を書き、その理由を番号でお聞かせくださいとして
①から⑥まで自分が考えうる予測を書いた。
しばらくして、「④でもあり⑤でもあり、でもそういうことでもないような。すみません。わかりませんよね。私は駄目な人間なので」と返ってきた。
返信を見て、核心に近づいたような、余計に遠のいたようにも感じた。ミステリアスで、ますます掴めない。最後の一文は、太宰治をも感じさせた。
「えぐい質問ですみませんでした。太宰治から返信がきたかと思いました」
「えぐいですね、確かに。あ、これ褒め言葉です。記者として。太宰ですか…。駄目なやつって感じですね。そんな感じですか、私。あの気だるそうな顔が浮かびました」
太宰治に見えたというのは、私にとっては最高の賛辞だった。返信を読む限り、そう例えられるのを本当に嫌がっているのか、あるいは照れ隠しでそう書いたのか、わからなかった。
太宰先生からは「あなたは、私に聞いたものはお持ちなんですか。えぐい質問返しで」という文章が届いた。
ああ・・・質問返しがくるのか。これは想定外だった。私は面食らいつつ、うれしかった。太宰先生が、私にかなり深い質問をしてくださっている。
結局、この案件はラインでは埒があかない。会ったときに話しましょうということになった。しかし、世の中はますますコロナの感染が爆発し、人と会うのは厳しい局面を迎えている。しばらくはお会いできない。早く聞き出したい気もするが、もしかしたらこのまま止めておく方がエロスなのかもしれない。
知りたいことと、知りたくないことは表裏一体だ。
私はどこまで、太宰先生に近づいたらいいのだろう。