きれいな言葉
どうしてそんな流れになったのかはすっかり忘れたが、2年ほど前、彼のマンションの物干し部屋で太宰治の「グッド・バイ」を音読してもらったことがある。
贅沢な時間だなぁと思った。私ひとりだけのための朗読会だった。
安定感のある低い声に耳を澄ましながら、私は彼の横顔を眺めていた。尊い・・・。
普段から、無駄のないきれいな言葉遣いをする人だ。
抑揚があるけれどわざとらしくない。ボキャブラリーも豊かだ。
しゃべりのセンスは一生かけても追いつけない。
そんな彼が読んでくれたグッドバイがいまだに忘れられない。
しゃべりのセンスに惚れることもあれば、ペンのセンスに心揺さぶられることもある。
知り合いの新聞記者がコラムを書いたというので読ませてもらった。うまかった。
すっと入りこめる出だし、緻密な取材に基づいた客観的数字、オチに向かって流れるように文章が加速していく。
その人は「オチだけ読んで『〇〇だったんだってね』っていう人がいるんですよね。本当のメッセージは別にあるんですけど。まあ、読んでくださるだけでありがたいんですけどね・・・」とこぼした。
わかる。ものすごくわかる。
文章を書くときはそこに込めたメッセージがあるのだが、オチや目立つところだけを取り上げて、どや顔でトンチンカンな感想を言ってくる人もおり、心底がっかりする。
私はそういう人には別に理解されようとは思わない。
「感性が違うんだわ」と、ばっさり心のどこかで切り捨てている自分がいる。
その人は「まあ、伝えきれなかった僕の力不足なんですけどね」と言っていたので、「それが本心ならば謙虚すぎませんか?」と言った。
その人とLINEで連絡を取り合うことがあるが、見事に文字しかない。
これは新聞ですかね!?と見まごうほどに。
「LINEには使いやすい絵文字が豊富にございますよ?可愛いスタンプというのもありますがご存じですかね?」とお伝えしようかとも思うが、それは野暮というものであろう。きっと存在は知っていらっしゃるのだ。
テレビで私のリポートを見たその方から「お姿見て癒されました」という一文が届いたときは、どの絵文字も叶わぬほどのインパクトを残してくれた。
お姿だなんて・・・。
私のお姿・・・癒された・・・
うれしい・・・恥ずかしい・・・何も手につかない・・・
その人と交わす絵文字なしのやりとりは、日本語の美しさや面白さを再発見するきっかけにもなる。
お互いに韻を踏んでリズムを合わせてみたり、上品な冗談を言い合ったりする。
私は気持ちが高まって、生まれて初めて「お慕い申し上げています」と書いた。
送信した直後に、やりすぎたかもしれないと思った。
返信はさらりと返ってきた。「私もです。おやすみなさい」と。
先日、どぶろっくの大きなイチモツの歌を目を輝かせて聞いていたことを、この人にだけはバレたくないと切に願う。
一般の人はプロ並みに話せなくて当たり前だ。
一流の記者みたいに書けなくて当たり前だ。
ただ「まじうざい」とか「さいあく」を連発する人とは、とても合わないと感じるし、心底軽蔑する自分がいる。
突然雨が降ってきたことは、最も悪いこと「さいあく」なことでしょうか?
しょうゆをこぼしてしまったことは、最も悪いこと「さいあく」なことでしょうか?
スマホの充電が残り少なくなってきたことは、最も悪いこと「さいあく」なことでしょうか?と、問いたくなる。
言葉がきれいな人と一緒にいると、気分まで明るくなる。感性も合いやすい。
そういえば彼と付き合う間接的なきっかけは、このブログだったかもしれない。
私が書いたことを的確に理解してくれる人だなぁと思っていた。
オチだけではなく文脈も丁寧に読み込んで、コメントしてくれるのでうれしかった。
「いつも読んでくださってありがとうございます」と伝えたときに、「好きなんだよね~、あやちゃんが書く文章。面白いし」と言ってくれた一言が、忘れられない。
一緒になっても、私がうれしいこと、私が悲しいこと、私が憤ることを的確に理解してくれるんだろうなと、あのときから思っていた。
きっと私は言葉がきれいな人が好きなのだと思う。
言葉がきれいな人は、生き方がきれいで色気がある。
そういう人に、私もなりたい。