恋愛持久走
恋愛の初期は、50m走を何本もこなす感覚に似ている。
浮き足立つ。呼吸が乱れる。目が合っただけで頭の奥が痺れ、LINEのやりとりなどは、諳(そら)んじることができるまで読み込んでしまう。
彼のことを知りたくて、でも全部知るのは怖くて。
自分のことを知ってもらいたくて、でも全部知らせることにためらいもある。
彼の仕事のひとつひとつが尊い。その才能に憧れ、ひれ伏し、嫉妬する。
気持ちは彼の周りをキャンキャン走り回るうれション犬のくせに、涼しい顔をしてエッジの効いたことを言ってみたり、誰もしないであろう質問をぶつけたりして揺さぶりをかける。
食事にでも誘われようもんなら、逆に逃げ出したくなる。
「生中継より緊張する・・・」と言いながら、待ち合わせ場所に向かったこともある。
裸で抱き合う以上に、外での食事は相性が問われる。
相手のテンションや温度感を見ながら、食事も会話も楽しもう。
手のひらにメモをするような感覚で「きょうはこれを言いたい、会話に詰まったらあの話題を提供しよう」などと準備をしたこともあったけれど、今はもう、現場まで白紙で行っても何も問題ないことがわかってきた。その空気をただ楽しめばいい。
クールな印象のあの人が饒舌に話してくれる。楽しそうに笑ってくれる。
キレイな指。知的な佇まい。低い声。
そのすべてを目の前で感じられる。
「蟻地獄ならぬ、アヤ地獄に堕ちてみます?」声に出さずに問うてみる。
恋愛の醍醐味は、恋愛初期だ。
何本も50mを全力疾走し、ランナーズハイの精神状態が味わえる。
思えば、いまの恋人ともこんな時代があったんだよなぁと思う。
しかし、こんなことが半年以上続けられるわけもない。
50mダッシュができる期間は限られている。
ちょっと水を飲んだタイミングで「そろそろ、中長距離走態勢に変えていきましょうか…?」となる。
言葉に出さなくとも、徐々にペースを緩めざるを得なくなる。
平常心で生きるていくために。この恋愛を続けていくために。
あんなに張り詰めていた気が緩んでくる。
彼がいるのに口をあけて居眠りをし始める。
私がいるのに下着姿でうろつくようになる。
お互いに外で活躍する顔と、家でくつろぐ顔のギャップが激しくなってくる。
しかし、別に幻滅しているわけでもない。これはこれでいい。
そういえば、と思う。
全力疾走期に、彼は『女神ちゃん』フォルダなるものを作っていたことを思い出した。
全力疾走期にしか思いつかないようなフォルダ名だ。私の顔写真をすべてそのフォルダに収め、「ほ・ぞ・ん」と言っていた。
あのときは「やめてくださいよ~ 恥ずかしいですぅ~」などと言っていたが、最近、そんな様子をぱったり見なくなった。
「やめてくださいよ~」などと言わなくとも、すっかりやめた風情がうかがえる。
おもむろに問うてみた。
「あのさ、女神ちゃんフォルダどうなった?」
「おおぅ・・・あれね・・・」一瞬、言葉に詰まっている。
そうして饒舌に語り始めた。
「前のスマホは16ギガしかないから、不要なものを削除して、大事なアヤの写真は別場所に残す必要があったんだ。でも今のスマホは256ギガもあるから、フォルダに移行しなくても全部残ってるんだ。
これまでは自分で管理しないといけなかったけど、僕らの間柄になれば、見たい写真はアヤに言えばすぐ出てくるしね。2人で1つのフォルダっていうかさ」と。
なんだこのうますぎるまとめ方はー。なんも言えねぇ・・・。