ネギ泥棒に告ぐ。
野菜をもらいに実家に寄った。今の季節は特にネギが美味しいらしい。
土がついたネギを新聞紙に包んでいると、祖母が「そういえば、お父さんがネギ泥棒の看板を立てとったよ」という。
えっ?ネギ泥棒の看板!?何のことだ??
見る前からネタの匂いがする。
「どこどこ?」
「うちの裏の畑や。長靴履いて見てくるまっし」
「うん!」
私はすぐさま家の裏にまわり、父が立てたという看板を見に行った。
そして一目見た瞬間、あまりの衝撃に畑の真ん中で大爆笑をぶちかました。
「何やこれーーー!!!」
「ネギ泥棒に告ぐ。今回で3度目。警察へ通報済み。再度盗み犯すな。(家庭菜園耕作者)」
最初は「ネギ泥棒へ」と書いてあるのだが、わざわざ2本の横棒で消して「ネギ泥棒に告ぐ。」と、書き直しているところにも父のこだわりを感じる。書き直しの跡はそのまま看板に残されている。
「再度盗み犯すな」という警告文も、かなりパンチがある。
「家庭菜園耕作者」という署名もなかなかのセンスだ。普通はこんなとき何と署名するんだろう。もはや正解すらわからない。
私は父に「なぜ『告ぐ。』に直したのか?」と問うてみた。
だいたい想像はつくのだが、本人の口から聞いてみたい。
「おう。『へ』やと優しすぎるやろ。泥棒様に手紙でも書いとるみたいでおかしいやろ。込み上げる怒りを伝えんなん。ほんで「告ぐ。」にしたんや。命令形にしたんや」
最近、太宰治の企画展を見たのだが、そこには太宰が大きくバツをつけた直筆原稿や、書き直しの跡が見られる原稿があった。それらは太宰の創作の舞台裏に迫る超貴重資料として、展示室のガラスケースに展示されていた。そうして多くの市民が「ほほぉ~」とありがたくそれらの原稿を見ていた。
もし父が名だたる作家だったら・・・。
私は娘として、この手書き看板を資料館に寄贈しただろう。
キャプションは『ネギ泥棒宛ての手書き看板』
「邦夫(父の名)が相次ぐネギ泥棒に怒りを示した看板。自宅裏の畑に設置。
「へ」が「告ぐ。」に書き換えられており、邦夫氏の込み上げる怒りが伝わってくる。
2021年 長女・絢子氏より寄贈」でいかがだろうか?
私はあまりにおかしく、親しい人たちに写真を送った。
「すごい看板だったねー。文字に怒りが感じられる」
「畑も広いねぇ。泥棒はいかんよ それは告ぐわ」
「父上の大切な畑に、それはいけないでしょう(笑いを必死に隠しつつ)」
多種多様な返信が届くのだが、共通しているのは、みんなネギ泥棒ではなく看板を立てた父に興味がいっていることだ。
私もその一人だ。
泥棒のプロファイリングはそこそこに、父という人間について思いを馳せる。
そうして「私には確実にこの人の血が流れているんだよなぁ」と、何とも言えない気持ちになる。
世間体など全く気にしない言動。自分の意のまま、勢いのままに走り出す性格。
今まで色んなものを禁止する看板を世間で見てきた。
「立入禁止」「駐車禁止」「携帯電話使用禁止」「録音・録画禁止」「ソースの二度漬け禁止」
それらの看板を見るたびに、「禁止されていることはしないでおこう」と心して生きてきたが、これほどまでに釘付けになった恐ろしい看板はない。
「絶対に盗みを犯してはいけないのだ」という観念が、体に、脳に、刷り込まれる。
何かの拍子でうっかりネギを抜いてしまった日には、即刻、地獄行きであろう。
きょうの夕食はネギにしよう。
私は「家庭菜園耕作者」から正しい手順でもらったネギを、どんな料理にして食べようか思案している。